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2008年12月17日

●安全第一


『本当はね』を書き始めたときから、私はNOという訓練をしている。

NO!ということを苦痛に感じるうちは、まだまだお試しはやってくる。

オフィスで宮川さんとこんな会話になった。

「ねえ?うさちゃんは、子供の頃から、ちゃんとNOって言ってた?」

「僕なんかはNOをいえるいい子だった。」

「NOを言えるいい子かあ...その発想、私の中になかったなあ。」

「それに、いい子じゃないと思われても平気だった。」

「でもさ、NOと言ったとき、何故NOなのか聴かれたらどうしようって思わなかった?」

「NOはNO。理由なんかいらない。だって、俺、嫌なんだもん。って、ただ言えばいいの。」

 短い会話ではあったけど、うさちゃんにそういわれ、ハっとした。

人は、皆、自然にNOを言えてるんだ。


 私には、子供の頃からNOという権利が与えられていないように感じていた。

 皆は、休んでいてもいいけど、私は休んではいけない。

 皆は幸せになってもいいけど、私は幸せになっちゃいけない。

 皆は頑張んなくても責められないけど、私は頑張らないと責められる。


などという恐怖にいまも苛まれている。


 万が一、休みが欲しいとき、もしくは提案された企画にNOを伝える時にも、

相手を納得させるための正当な理由がないと、本当の気持ちを伝えられないと思い、

そこに時間と苦痛のエネルギーを支払っている。

とても苦しかった。


 CLASS5で、4年生と先生に感謝するセレモニーがあって、学年ごとになにかやらなきゃいけないんだけど、昨年は最後まで責任をとるデイレクターがいなかったために、一部音楽担当の私は何かをやりたい人のそれぞれのエネルギーの交通渋滞に巻き込まれ、大混乱した。

 だから今年は誘われても参加しないって決めていた。


それでも、EIKOは、どのグループに入るの?とか、あなたとこの歌をデュエットしたいんだけど、アイディアくれない?と、あまり何も考えずに企画をもちかけてくる同級生がいて、単純にそれを断るのにものすごいエネルギーを使ってる自分がばかばかしくなった。

 こっちの人は、けっこう適当に丸投げしてくるから、調子にのっていい人になると、

大仕事を引き受けることになる。だから、気をつけないといけない。笑!

 結局、去年みたいに、私がVOICEのこととか、アレンジとか、オケとか作ることになるんだ...と、想像できただけで、気が重くなった。

 

 私は、相手を納得させる正当な理由を探していて、

その理由探しに2日ももんもんと時間を使ったというのに。笑!

「ME!」「ME!」「ME!」という人たちが簡単に「NO!」「NO!」「NO!」といってるのを見たとき、私もやってみた!さわやかに、「NO!」


「ねえ?わたし、決めた。やらないよ。あなたとは歌わない。」(この時、ごめんね、は、いらない)

「OK!」にっこりと、それでおわり。あっけなく相手は引き下がった。

アメリカ人は、押しも強いが、そういうところは以外にさっぱりしていて、

拍子抜けした。


 NOということで、自分の大切なコア・エッセンスを守ることは人間にとってとても大切なこと。


 それこそが大きな理由であれば、他に何が理由になりえよう。

自分が大切にしている感情や直感やコア・エッセンスは常に安全な場所にあるべきだし、誰のものでも、それは、守られるべき聖域である。

 そのコアを使って仕事をしている人間は、そこに対価が発生する。

だからこそ、自分で自分を大切に取り扱う必要がある。声も体も与えられた時間も。

 安全第一である。



 






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コメント

>私には、子供の頃からNOという権利が与えられていないように感じていた。

これ、私にもありました。2年ほど前まで引きずってました。
相手は明らかに「迷惑な行為」をしてきているのにはっきり「やめてほしい」と言えなかったり、「この人とは波長が合わない、一緒にいると疲れる」と感じているのになかなかその人を切ることができなかったり。
「NOと言ったら私は周りの人から恐い人間、悪い人間だと思われる」みたいな思い込みがあった気がします。
そういう「NOと言えないオーラ」を敏感に察知してつけ込んでくる人間がまた、いるんですよねー(苦笑)

そういうパターンから抜け出すには
「NOと言っても嫌われることはない」
「相手のニーズより自分のニーズを優先しても良い」
ということを繰り返し自分に言い聞かせると良いようです。

自己主張しなければ生きて行けない人種に鍛えてもらったと言えば、
大学時代に仲良くしてもらった関西出身の友人!
かつては言えなかった『要りませんm(_ _)m』を『要らんわ!』の一言で
電話での勧誘販売や直接自宅への訪問販売を黙らせる威厳?威嚇?で根絶!
言わぬが花!につけこむ申し出には、キッパリとNOと言いましょう!

日本人は「NO!」と言っても引き下がらない人が多い。
○○さんじゃないと、とまるで断る私に非があると言わんばかりに。
本当は私がやらなくても誰か仕方なくでも代わりはできるし、
仮に代わりがいなくてその事自体が結果的にできなかったとしても、
誰かの生死に関わる事でも何でもないのに。
で、その断る時に使うエネルギーは膨大。言った後で罪悪感とセットで
ぐったりしてしまいます。

私の場合家族間、特に母親の言う事に逆らう事は許されなかった。
理不尽な事であっても。
母方の親戚付き合いが多く大方の意見が母と同様だったので、
まるで宇宙人扱い。最近、やっとそれをかわす方法を学びつつあるけど
それでもNOと言う事に罪悪感を覚えてしまう自分が情けなく。
理屈も何も関係なく、嫌ったら嫌!!
それでいいんだと呪文のように言い聞かせないと自分が揺らぐ。
話の引き際がまだ見極められないのも悩み。
どこまで相手は話していたいのか、わからないうちにずるずると。
自分の都合で今日は楽しかったねって終わらせたらいいのに。
まだまだ呪縛が解けません。

私も本当に同じです。
・・・私のNOは、家族を、友人を、知らない誰かさえをも不幸にする。だから私は罪深い。だから自分を殺して、人を幸せにしなくては。
私のほんとうのこころでいることは、人を不幸にする。だから私は、私でいてはいけない。

理屈は分かっているのに、いつも抜け出したいのに、いつまでもそんな苦しみを抱え込んでしまう私です。
一生このままなのかなぁ。いつも自分のバランスを取る事ばかりに必死に時間を費やして終わってしまうのかなぁ・・
凹んでいるととってもヤリキレナイ。

EPOさんや皆さんがこの苦しみ、シェアしてくださっているようで、嬉しいです・・・心からありがとう!!

日本人はもともと欧米人と違って、はっきりNOと言えないところがありますからね。。。
EPOさんがアメリカに行かれたのは、良い意味でアメリカナイズ?される為にハイヤーセルフが導いたのかも知れませんね♪

今、TBSの「ピンポン!」という番組で、泰葉さんの話題が取り上げられていたんですが、コメンテーターの室井佑月 さんが、「何か泰葉さんて、もめればもめるほどドンドン綺麗になってくので悔しい。。。」と言ってました。
悪いものを溜め込まないでドンドン吐き出すからですかね?(笑)

一度でいいから私も言ってみたいな〜。面と向かって「くそぶたやろうーっ!」って。毒が内側に沢山はりついてるからか、1ヶ月も微熱がとれないょ(;_;)私も同じ。いまここで「NO」と言ったら相手が気を悪くするんじゃないか?空気が悪くなるんじゃないか?と考えるあまりに我慢する。あ〜もうこんな自分が嫌だよ〜!

「あなたが気を悪くしても、空気が悪くなっても、私は私らしくいたいの。あなたがあなたのこと大事なように、私も私が大事なの。自分を壊してまで、我慢したくないの・・・」
アプリコットさん、辛いね。分かるよ。分かるよ。とっても。

うわ〜ん...skyさん、ありがとう。「私らしく」うん、いい響き。あまり考えたことなかった。私らしく。「私らしさ」もよくわかってないかもな。明らかに相手に否がある場合でも、NOと言えない私は、やはりどこか「いい人と思われたい」のかな?ばっかみたい!!って自己嫌悪。まさに矛盾の中で生きてる...のです。