●決まっていること
日記:最初から決まっていること
今日はお昼から、スタジオで販売の打ち合わせ。
その後、REC。今日は、まるで決まっていたかのようにスムースにアイディアが浮かび、3曲も作業が進んだ。どれもそれぞれに素晴らしく、とても満足した作品に仕上がった。
そういえばBALIで出会ったシュクラさんというガイドの人が、BALIの文化について、何かとこんな言い方をしていたのを思い出した。
「これは、もう、昔から決まっていることですから」
決まっていること...。それに対して、何故とか、どうして?とか、
疑問なんかないのだ。
だって、最初から決まっていることだから。
こんなふうに自分が住む世界を受け入れられたらどんなにか楽だろう。
たとえば、お供えに使う植物。とてもいい香りがする。おかゆや、ご飯を炊くときに、入れるそうだ。
「これって、どういうところに生えているんですか?」と、訪ねたら、
「これは、お寺のある場所で作られています。それは決まりです。お供えものをになるものですから。」という答えが返ってきました。
たとえば、お祭り。神様に捧げる舞や演奏が、嵐の中でどうなったのかを、尋ねたら、
「雨が降っても嵐でもやります。それは、決まっています。お祭りですから。」
彼らは、完全なフォームやパターンの中で神様とともに生きている。
その中に、微塵の疑問も無いのだ。
昨日、昔録画しておいた、向田邦子の『父の詫び状』というテレビドラマを見ていて思ったことがあった。
昔のお父さんのフォーム。お母さんのフォーム。
その中にも「決まっていること。」らしき日本の夫婦のあり方が見え隠れしており、大変おもしろかった。
もし私の旦那があんな風だったら、自分に生活力があっても無くても、即離婚だなと、無責任に心がつぶやいた。
撮影中に向田さんから母親役の女優さんが、「お布団の角はね、踏まないようにね。」と、アドバイスを受けたと話していた。おう、それも決まっていたことだったのかと、新しい昔の決まりを知っておもしろかった。
植物が渦を巻きながら芽をのばしていくことがそうであるように、
雪の結晶がそうであるように、神様の意思とユニゾンして生き、歌うことが、
第5レベルのあり方だ。
なんと美しいデュエットなんだろう。
そういう視点で見るとBALIの人々の生き方には、大人も子供も迷いがない。
家族を作ること、子供を生むこと、働くこと、生きること、家族を育むこと、先祖を崇拝すること。祭りごとを欠かさないこと。ただ、それだけで人間の存在に意味が生まれてくるからだ。ひとりひとりの命が、完璧にアレンジされたシンフォニーの一部であるように。
その個々の中にある成分がたとえどのようなもので渦巻いていてもよい。
渦巻いていることは、その命の存在に意味があるかとか、無いかとか、そういうことを問う次元のものとは違う。
渦巻いているという状態なのだ。渦を巻くことは、生命が重力と折り合って芽をのばすことと同じことである。そうできることも命あるものの才能、本能だ。
私たちは人間に生まれ、奇跡のような設計図のもとに、存在しているんだなと、
忘れてしまうにはもったいない素性のもとに生まれているように思う。