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2006年6月 2日

●感動の一日

今日は、朝から、夜まで、カウンセリングの一日でした。

よく、クライアントの方から、
「いろんな方にお目にかかって、悪いエネルギーをもらったりしませんか?」
こんな質問をよく受けることがあります。
私自身、一度も、そんなことを、考えたことがないせいか、
気にもしていませんでした。
気にしていないので、そういうものは、私の中に存在していないないのかも。
というか、こちらにいらっしゃる方々のほとんどが、
すごくきれいなエネルギーを運んでくださる方ばかり。
私を、一人前のセラピストとして育ててくださったのは、
クライアントの皆さんでした。
健全な自我を持つがゆえに、人は傷つき、悩みます。
自我が確率する間に、私たちは、様々な環境からいろんな体験をします。
その体験から、ある感情が記憶という形で保存され、それがものの考え方になり、そのものの考え方が態度となり、行動となっり、私たちの現実を作るとされています。
ただそれだけのこと。
だから心のプログラムが変われば、望ましい現実を確実に、
作り出せる。
私たちそれぞれが見ている自分の現実は、
全て、小さい頃に作られたプログラムにより制作された、
ある種の、作品とも言えるでしよう。
私たちは、生まれてくる時に、それぞれが、そんな才能を持って、この世に生まれてきたなんて!すごいことです。
みんなある意味、アーティスト!なのです。

その作品が気にいらない場合は、その手法を変えればよいだけなのです。
心のプログラムを変えることで、全ての現実が全く変わります。
今日も3人のクライアントの方が、素晴らしい言葉を私にくださいました。
「人はなんのために生まれてくるの?
私は、そのことを自分が知りたくて知りたくて、わかんなくなって、動けなくなってしまうの。
私は、自分に、美しいという感情や悲しいという感情を感じさせてくれる全てのものが、愛おしくてしかたがない。
それぞれが違っていい、そんな風に全てをみてあげたい。
自分も皆から、そんな風に理解されたい。」
これは、先日、ある少女が私に話してくれた言葉でした。なんと感動的な言葉でしよう。
思わず、立場を忘れて涙があふれそうになりました。

あるがままに生きた事がない人は、「あるがまま」とはどんなことかに疑問を感じることはできません。
私はそう思います。
しかし、この少女は、既に、「あるがまま」であることとは、どういうことなのかを、この年齢で、探そうとしていました。
ということは、どこかで、「あるがまま」を生きた体験があったということなのかな?と、思いました。(前世かどこかで。)
年齢関係なく、セラピーの仕事をしていると、クライアントの方々から、素晴らしい気付きをたくさんいただきます。
私は、彼女と同じ年齢の頃、バレーボールにただ明け暮れていた、スポーツ少女でしたし...。

こんな風に、ほとんどのクライアントの方が、
「あるがままの自分」そして、「愛」を体験するために、厳しいステージを選んでいらっしゃるように思います。
病気や、困難は、そのために用意された脚本のようなものかもしれません。
という意味で、「悪いエネルギー」どころか、尊敬の気持ちを、常々皆さんに感じずにはいられません。

今日は、そんな素敵な一日でした。
今、日記を書いているアトリエ・エポニカのスタジオで、
秋元さんが、『WE CAN』のRECの準備をしてくださっています。

昼はセラピストとして、夜は、音楽家として、全く違うモードの仕事をする。
こんな日常、すごく楽しいです。
『WE CAN』これは、杉並区の教育プログラムの一環として、
作った作品。いよいよCD化です。

道を決めかねている10代の人たちから大人まで多くの人たちに聴いていただきたい元気いっぱいのPOPSに仕上げる予定です。

今夜も朝までかな...