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2008年6月10日

●こういう私を変えたい


Year2 学年末 Class 5 マイアミです


2年生はとても早かったな...。あっと言う間だったような気がする。
1年生の時の私の変容プロセスはヒプノのトレーニングの時を遥かに超えた体験だったな...あんなにカウンセリング受けたのに、まだ出る出る。
 過去の日記を読み返してみてもわかるけど、BBSHは、自分が気付いていない意識より深い筋肉や細胞に記憶された痛みや傷までをみつけにいくような授業をするから、大学にいる間は泣きっぱなし。「私は、あの時、とても痛かったんだ、痛かったって感じていいんだ。なのに、どうして、私が誤らなきゃいけなかったの?」って、ここに来て、初めて心底、自分という人間の存在を許された感じがしたの。そんな一年間。
 そして、2年生のテーマは、人間関係。
 私は、家族や、異性との関係性について、深く見ていたように思う。
男性との人間関係におけるモデルというのは、家族の中の男性でしよ?
父はスキンシップもしてくれた。私は父から「愛されていた」という体験を心のどこかで信じようとしていたことに気付いた。
 そうしたかったのは、唯一、母がいない場所で、父と私とふたりでいるときは、私を尊重し、認めてくれたから、父とのそういう時間は、私にとって、とても大切な思い出だったからなんだと思ったの。

 私の家はね、「そこまで言うか?」というくらい、家族全員が、互いにモラルハラスメントなんて、あたりまえのことだったの。やられっぱなしでないところが、私の強いところだけど、その不毛感や、普通でない違和感については、兄よりも、他の誰よりも社会に早く出た私が知っていて、大人になってからも覚めてみていたと思う。
 我が家は、普通の会話ができないの。会話は常に大声だし、けんか口調。誰かが、誰かに、「ごめんなさい」と言ったところを、聴いたことがない。きっと、あんなに戦っても、誰も根本的には勝てないんだろうな。だからかな、不毛感と、後味の悪さが粘着質のように引きずるの。
 
 我慢ができても、我慢ができなくても、いいなりになっても、そうでなくても、
家族でいる、居方が私には、まったくわからなかった。どんなわたしなら、受け入れてくれるの?どんな私でも、正解じゃないから。

 そんなところがあるから、怒りや、悲しみを押さえるために、第2チャクラを停止させ、背中の筋肉を使って、「傷ついてなんかいないふり」をするのは得意になっちゃったじゃないの...。決して健康的ではないね。
 ヒステリックに声を荒げ、言葉のトリックを巧みに使い、相手に罪悪感を感じさせる形で、自分の正当性を主張する。しらないうちに、こちらが悪いことになっている。そういう我が家にいた異性的な会話の仕方をする人が大嫌いなんだけどね、
 私は、そういう人間関係の中に遭遇したとしても、克服したいと思っていることがあるの。
 そういう相手から、相手がそのつもりもないのに、私は、自分が勝手に責められたと感じているようにふるまうことがあるらしい。電車の中で、大きな声で偉そうに話してる人の声とか聴いたりすると、ムカっときてる。完全なる感情の転移。(自覚症状あります。笑)そういうの、やめたい。
だって、相手は、父や兄じゃないんだから。Class 5はリジット・デイフェンス。まさに、私のこと。
 
 出発前ぎりぎりまで、「ほんとうはね」(タイトル仮)という歌を作っていたの。詩を仕上げるのに、1年もかかった。本当の気持ちが日々変わったから。どんどん飾りを脱いでいったら、ほんとうの気持ちだけが言葉になって残った。誰かに聴いてもらうための歌というより、自分が自分のために歌うための歌になった。
本当の気持ちに嘘がないように、何度も、何度も書き換えてたの。
作品を作るって、本当に自分のプロセスだね。自分と向き合う時間そのものだなって思った。いつか皆に聴いてほしいな。
 そうそう、今回、eponica43号の原稿も半分以上仕上げて出発したよ。
私!偉い!いい子、いい子!