●私の旅だもの
自分の書いた日記が、たくさんの心に触れていることを知りました。
でね、これはお返事しなきゃと思い、昼間から書いているんだけど。
この日記は、あくまでも、私のプロセス記録として設けているコーナーなので、皆さんに、苦い胃液を、一緒に飲んでくれ〜その感想を書いてくれ〜などということも、全く要求しませんから、安心してください。
でもね、同情してくださる人がいたとしたら、それもうれしいです。
私、ほんとうに、同情されたいですもん。
「大変だったね」って。「ひどい話だね」って、一緒に言ってくれる人が、ずっと欲しかったもん。それは、いけないことかな?
個人のプロセスは、たくさんの人に、同時にプロセスを起こさせるエネルギーを持つことは確かです。
学校でも、こういう時間をたくさん授業でやります。
誰かのプロセスをもとに、自分の体や心にどんな変化が起るか。そして、そのエネルギーって、人のエネルギーにも、大きな影響を与えるんだなと、皆さんの真摯な書き込みを読みながら、今、私自身が、影響を受けています。
どんな人の話も、その力を持っています。
私は、クライアントの方々のプロセスから、どれくらい学びを得たことか。
大人になって、セラピストになって、自分と向き合うことを、一生していくことが義務づけられて、ようやく表面化できるようになった感情の数々。
(逆に、私がクライアントだったら、このプロセスを自ら日々体験しているセラピストを選びたい。)
昨日の、日記を書き終わったあと、肋骨の持ち主である私に、「ようやく気がついてくれたの?もういちど、最初から痛がっていい?」
そう、言っているようでした。
骨の痛みがあるから、咳とたんが出たいのに痛くて出せない、冷や汗が止まらない。眠れなかった。
ロルフィングの情報も、たくさんの方々からいただきました。
本当に、ありがとうございます。
「許すはよし,,」ふむ〜。
この言葉を書き残した偉い人は、ここまで、人生を達観するのに、どんなに大変なプロセスを体験してきたことでしよう。私は、このえらい人の、プロセスに興味があるな。どのようにして、ここに至ったのか。
美しく、濾過されて残った言葉よりも、そこに至までの生き方に、とても興味がある。え?変かな?私。
人間の本能として、感じないようにしてきた、痛みや感情を感じる、というあたりまえの練習あたりで、神様、お願い、もう少し、私をうろうろさせてください。
まわりの景色も見たいし。
痛い体験を、紙から切り取って、ポイって捨てられるように、無かったことにできたら、本当にいいのにね。
戦争もそうだけど、肉親や他人から受けた、心や身体的な虐待を、癒しを得ずに、忘れることができるだろうか?
私は、人を許せる準備ができるまでには、時には、膨大な癒しの時間を与えられる必要があると思っている。
孫子の代まで癒しの時間を必要とすることだってある。
「今は、許せなくてもいいよ」と、まずは、相手を許せない気持ちを正直に感じることを、自分に許してから癒しが始まるようにも思う。
だって、とっても痛かったんだもん。
そして、もうひとつ、私は、「家族を憎む権利」を主張しているのではない。
でもね、たとえ、主張していたとしても、それは、何故いけないのかな?
私は、家族を、恨んでいるのでもない。「そんなことされて、悲しかったよ。」「悔しかったよ」「痛かったよ」と、言っているの。
そういう意味では、「痛かったよ」と、当然感じてもよいし、そう言ってもよいという人間の尊厳をもっている。
それが、過去のこと、昔のことであろうが、関係がない。
今、その人は、その人の人生の中で、無いことになんかできないんだから。
そうそう、過去生催眠では、現世における痛みが、何代も前の体験からきていることだってある。
私は、クライアントにも絶対に言わない。
「そんな昔のこと、早く忘れなさい」「許しなさい、楽になるよ」などど。
そして、今ある、本当の感情と、自分を切り離さないでと伝えます。
本当の感情に罪悪感を感じたり、感じないようにしたり、自分を分離させたり、
そうすることによって、別の痛みが生じるから。
私は、人生の変容の旅の中で、痛みと向き合う自分を励ましたい。
だって、私の旅だもの。
『許すはよし、忘れるはなおよし』えらい人の言葉...。
もしかしたら、今生では達成しないかも。
歌うために、何度でも、生まれ変わってきたいし。