« 2012年5月 | 日記TOP | 2012年7月 »

2012年6月29日

●悲しみの忘れ方?

epoさん、悲しみの忘れ方を教えてください」と、

セッションで聴いてきた方がいました。

 

そう聞かれて、私はどうやって自分が過去の悲しみを忘れてきたかを、

本当に思い出そうとしたのですが、思い出せませんでした。

 

それに、そのことを思うと、そこにはまだ悲しみがあるから、

私は悲しみを忘れたのではないんだなとも思いました。

 

よく、「悲しみを乗り越えよう」と、私たちは話ますが、

悲しみって、乗り越えることができるのでしようか?

乗り越えたって、誰かを失ったという悲しい事実も、

確実にそこにあるし、

夢で泣いてしまうことだって、私、まだあるんです。

だから、ちっとも「乗り越えた」という感じではない。

 

でも、確実にあの頃の自分ではなくなっていることは事実。

どこが違うんだろう...

 

私たちは知らないうちに、あの悲しい感情がある場所から少しずつ時間を重ねて、

今を生きるようになります。

今を生きるようになると、今という積み重ねの経験が増えて、

そこに感情の置き場をおくようになる。

そうすると、悲しみの場所にいる時間よりも、

今を生きる時間のほうがふえて、少しずつ、それが過去になっていくような気がするんですね。

 

私は時々、思うのですが、今と過去、もしくは、子供の私と大人の私には、

橋がかかっていて、

なにか、過去の悲しみを思い出させられるような出来事が起きると、

一瞬にスイッチが入って、人は過去の痛みのある場所にもどることができるんだけど、

あの時と同じような悲しみや痛みとは、確実に少し質が変わっていることに気がつきます。

それは、乗り越えたとか、忘れたということではなく、

それ以降の他の体験によって、記憶のファイルが少し奥の方にしまわれたという感覚なのかもしれません。

だから、「今をちゃんと、たくさん生きる」そのことが、

もしかしたら、痛みを和らげてくれることの助けにはなってきたのかな?

と、そう思います。

 

だから、悲しみの忘れ方なんかないし、

乗り越え方なんか、ないように思います。

ただあるのは、今を真剣に生きるだけ。

悲しみや痛みを正直に感じることさえ、

記憶のファイルを過去にしていくいい方法かもしれません。

 

 

 


2012年6月28日

●免疫力とコア・エッセンスの関係

私、28歳の頃だったかな...。

なんだか自分の音楽活動にすごく疲れていた頃があって、

仕事に追われるばっかりで、自分を大切にする時間もなければ、

友達にも会えない。

なんのために生きてるのか、わからなくなった時期がありました。

大好きな音楽が仕事になってるのに、ちっともわくわくしない。

ヒット曲工場みたいに自分が働かされてるような気分。

急に悲しくなって、部屋中をめちゃくちゃにしちゃったり。

「どうして、わたしばっかりこんなに辛いの?」

って、押し入れに顔を入れて、泣いてたりしてたこともありました。

それなりにヒットも出て、外からみれば恵まれていて、

幸せそうに見えていたようですが。

その頃、私の体の免疫力が急激に下がり、

すぐに風邪をひく、過労で入院する、

声が出なくなる、微熱が続くなどの症状に苦しんでいました。

最期に自分が幸せって感じたのっていつだったかな...なんて、

考えるうちに、布団の中で涙が止まらなくなって、

死にたくなったりね。

そんな酷い状態の頃がありました。

 

あの頃の私は、自分自身が、本当に満足する生き方ができていませんでした。

「本当の私はもっとこうなのに...こんな歌だって歌いたいのに。」

ありのままの自分から生まれた作品を、提出するものの、

「売れないな」「何考えて作ってんの?」「暗いな」

作品のほとんどは、お蔵入り。

自分を全否定されたように感じてしまい、私の心はさらに落ち込んでいきました。

そんな心の声と、外との葛藤を繰り返しているうちに、

この違和感が私に本当に行きたい場所を教えてくれました。

 

一大決心し、ロンドンに移住。

約2年間日本を離れ、自由に音楽作りができる環境に身をおいたら、

なんと、すっかり元気になってしまったんです。

自分がありのままの音楽を表現することとは、喜びであり、

自分の核(コア・エッセンス)と繋がることを意味していました。

そのとたん、私の中に、新鮮で力強いエネルギーが満ち溢れてきました。


 最近、出会った人が、

嘗ての私のような症状を訴えていました。

検査してもどこも悪くない。

なのに、どうも調子が悪い。

 

そんな方に、

「一番好きなことはなんですか?」と、問いかけると、

皆さんの表情が明るくなり、

「本当は....になりたかったんです。」と、お話する顔が、キラキラしてきます。

しかしその後に来るのは、

「夢ですけどね」という言葉。

自ら、「...けどね」と、願望を否定することで、自分の素晴らしいソースの流れを、

自らせき止めてしまいます。

 

「友達は、夢は夢のままおいておくからいいんだよ、と言うんです。そう聞くと、やっぱりそうなのかなって思ってしまいます。」

 

私たちは、知らず知らずのうちに、

好きなことをやるからには成功しなきゃだめとか、

好きなことをやってるんだから、苦労しても我慢しなきゃとか、

ひとつを選んだらもうひとつは手放さなきゃだめとか、

そんな、誰かの言葉や、自分の考え方でないものに縛られ、

私たちは、自分に制限を与えます。

好きなことをすることに目的があるのだから、

別に成功しなくてもいいんじゃないかと、私は思うんだけど、

違うかな?

好きなことをやるのだから、苦労しても我慢しなきゃいけないというのも、

おかしな話。

好きなことと苦労ってパッケージなの?もし、そう思っていたとしたら、

好きなことが苦労と繋がってるのだから、そりゃ恐ろしくて一歩なんか踏み出せないよね。

好きなことをしたら、会社をやめなきゃいけない?

会社にいながらにして、好きなことができるなんて、なんて、素敵なことなのかしら?

だってお給料いただきながら、自分に投資できるんでしょ?

願望があるのに、自らそれを否定することは、なんてもったいないんでしよう?

それでは、クリエイティブ・エネルギーが、体の中で、停滞してしまいます。

「外に出ると危険だから、部屋に鍵をかけて、家にいた方が安全」

外に出たいという願望がありながら、自ら引きこもるのと同じです。

 

ヒーリングの定義は、「その人が本来あるべき場所を思い出す事」

と、私たちは考えています。

 

出会う方々を通じて、私は、本当に、ある日の私を思い出していた、

そんなセッションでした。

そんな励ましでも元気になっていただけるならと思います。

あなたにとって、あなたが、本来あるべき場所とは、

どんなところですか?

ちょっとわくわくしてみませんか?うふっ。



 

 

 


2012年6月10日

●急がない。焦らない。

「病気はゆっくりと螺旋階段をのぼるように治っていく。

木の葉を一枚一枚重ねるように。」

春田クリニックの春田先生の言葉でした。

まったくその通り。

Healing的側面から補足すると、

私たちのエネルギーフィールドは、なんらかの治療を受けると、

そのフィールドから修復されて、肉体という入れ物に届き、

その修復されたエネルギーが実際に自分のものとして定着するまでに、

かなりの時間がかかります。

ですから、施術が終わった後もゆっくりBedから起き上がっていただくようにお伝えするし、

Healingの後は、充分に自分に休息を与えて欲しいのです。

心と体を統合する時間は、本来最も自分に優しく、

愛に溢れた時間です。

でも、人は、ちょっとよくなったような気がすると、

すぐに心が浮き足しだって、

統合のための時間をおろそかにしがち。

(自分自身にも言い聞かせています。はい。)

 

先生曰く、治療のプロセスを焦ったり、

治った気持ちになって一気に階段を駆け上がると、

ドスンと床に落ちるのだそうです。

そのショックや痛みから立ち直るのに、

とても時間がかかるのは自然なことかもしれませんね。

また一からやりなおしかと思うと、

やる気もうせるってもんです。

 

心と体は連動しているので、そういう場合、当然、

メンタルにも、人間関係にもひずみを起こします。

治ることを焦る..急ぐ....。

急ぐから自分の事も大切にできないし、

人のことも大切にできない。だからでしようかね。

 

しかし、その経験が自己成長のチャンスであることも確かなのに。

私たちは、なかなかそこに光を当てることができません。

病気とともに思うようにいかない怒りをかかえているので、

周囲や家族にとってはひとたまりもありません。

 

焦る、急ぐ..それというのは、言い換えてみれば流れには乗っていない証拠。

今いる場所や状態..自分の病状ときちんと向き合って、

現状の自分と一緒にいられないということですから。

 

人生や体の故障を一回でリセットできる魔法があったら、

どんなにいいでしようね。

カウンセリングにも同じようなことが言えます。

長い間の誤った思い込みから今の自分を作ってしまったのだもの。

本当の自分の歌を、同じぐらいかけて思い出すことにも価値があると、

私は思います。

 

サイゲンジ君の「風の轍」という歌が聞きたくなりました。

た。


2012年6月 7日

●6.23日の慰霊の日を前に

今日は、一日、FM沖縄とFM仙台の番組の放送原稿を書いていたの。
梅雨明けと思われるようなカランとした抜けるような青空の中、
仕事場にこもって、2匹の猫に癒されながら深い時間を過ごしました。
うさちゃんは、気を使ってくれて、私に集中するひとりの時間をくれました。
本当にありがたかった。
 沖縄は今月23日に慰霊の日を迎えます。
番組の内容は、平和について考える一日になりました。
平和の定義ってなんだろう。ふと、考えました。
話はとんじゃうけど、昨日、東京から友達がやってきて、
夕方、せなが島でうちの大家さんが歓迎ビーチパーリーをしてくれたの。
 せなが島は、那覇空港が近い島なんだけど、「自衛隊の飛行機が一番うるさい」と、空を見上げて、地元の誰もがそう言っていたのが印象的でした。
米軍ばかりがニュースで取り上げられるけど、空を見上げる沖縄の人は、
「あれは、自衛隊の飛行機ねえ〜」と、へきへきしていました。

今日、原稿を書きながら思ったの。
平和とは...なんだろう?
単純に戦争がないこと...というのがまず、頭に浮かんできたんだけどね、
これは、人類の普遍的な願いとして...。
でも、昨年の3.11以来、私個人として平和を思うとき、
どんなことが浮かんでくるかな〜と、もういちど、考えてみました
豊かであること(それぞれの人の基準でね)、安全であること、自由であること、平等であること、健康であること、飢えがないこと、私たち、ひとりひとりの人権が守られていること、福祉が充実していること、環境汚染がないこと、などなど。

「戦争がないこと」と、思う自分と、それ以外で自分の中にうかんできた平和の定義を思うと、なんだか自分のなかで、「それがないとき」というのと、私たちを平和だと感じさせてくれる、「それがあるとき」という、妙なくくりが生まれて、なんだかよくわからんくなってきたわけ。
 そう、考えていくと、じゃ、戦争の反対は平和か?と聴かれると
かならずしも、そうではないな〜と思ってしまった。
戦争がなくても、貧困や、不安定、不平等、正義が、まかりとおらない状態、
医療施設がない状態、学校がない村、飢餓なんかは、平和ではないものね。
そうすると、平和の反対にあるものは、戦争がないことではなく、平和でない状態としか、表現できないな〜と、思ってしまったの。
沖縄にいると、そういうことを、思い出させてくれる...。