それも与えられた流れだとしたら、
その流れに乗ってみる。
すると何かが動く。
子供の頃からそうやって結果を作ってきました。
そして、流れが止まったときは、
無理して漕がない...。
私の母は、私のそんな性格、生き方を、
とても恐れていました。
私がそれを選んだことによって、
これから起きる、最悪の結果を、
まるで既に起こったかのように、
事細かく説明し、
私が恐怖で動けなくなることを、
母は期待していました。
「やってみなくちゃわからないじゃない!?
なんで、あなたが、勝手に結果を決めるの?」
母には、自分と娘が違うということを、
全てにおいて、
受け入れることができませんでした。
母が好きなものは、
私も好きでないといけないし、
母が嫌いなものは、
私も嫌いでないといけませんでした。
他の親を知らないので、
子供の頃から、親というものは、
そういうものなのかと思っていました。
私が、彼女の期待に添えない時の、
彼女の暴れっぷりを見るたびに、
私が私でいることは、
母にとって不幸なことなのだろうか、
そんな風に子供の頃は思っていました。
母に対する罪悪感と、
自分の本当の気持ちを止められない、
ふたつのエネルギーに、
心が常に揺れていました。
流れを止められること。
感じることを否定されること。
それは、
私が自分自身と繋がるための、
想像エネルギーの流れを止められることと同じ。
私にとって、もっとも痛みをともなうことでした。
大人になってから、わかったけどね。
母の心の中で勝手に起こっていることは、
いっさい私には関係のないことなのだと。
それに私が責任をとる必要は、
いっさいないのだということも。
ぶたれても、縛られても、殴られても、
止められても、中断されても、
作りたい。
歌いたい。
弾きたい。
続けたい...。
だって、それが私。
それぐらい今の仕事は、
私にとって確信に満ちたものだったということを、
親から与えられた制限によって、
気づかされたのであります。
いろんな面において、
混乱した家族でしたが、
私にとっては、
その方がよかったのだと思う。
私たちが、人生の目標によって学ぶ場所を選ぶように、
生まれる場所というのも、
そうなってるようにこのごろ思う。
ところで、
私は家の中で育っている、
このチューリップの生き方を信じているけど、
この先、どうしたいのだろう。
「育ちたいように育っていいよ」と、
心の中で、声をかけた朝でした。